悪事の片棒

人ってのは出来る事なら悪事を働きたくないと思っていると思います。実際「とにかくなんでもいいから悪い事をしたい」という行動理念の人物は今まで見た事がありません。

悪い事はすべきでない、と思っていても、気が付くと知らないうちに悪事に荷担していたり、分かっていながら仕方ない事情で悪事に荷担しちゃったり、よかれと思って為した(為さなかった)事が後で見返してみると悪事だったり。

極端な話、覚醒剤中毒の人がラリってわけ分かんなくなって人を刺したり、ストレスのかかりすぎた人がわけわかんなくなって…とか
社会的に危険なビョーキだったりとか。

なんにせよ、本人は「出来れば悪い事はしたくない」と思っているとは思うんですよね。

無知こそが悪だとか、回避できる智恵がない事が悪だとか、そう言う考え方も出来るのかも知れないけど、でも、私としては「人は事情がない限り悪意のない生き物なのだ」と思います。

自分だって、同じ立場になれば同じ事をしてしまうかも知れないし、それに今だって自分の気が付かないうちに悪事に荷担してしまっている可能性だってあるわけで。

悪事に荷担していれば事情はどうあれ、社会的な制裁は受けるべきでありますから、自分だって社会と関与している以上はいつも首を洗っておく必要があるのかもしれません。

そう考えれば、人の事や社会の事を責めたり、悪口を言ったりする事は軽はずみにしてはいけない事のような気がしてきます。

もっと話を聞いたり、事情を理解しようと試みる事で、次につなげる事も出来るかも知れません。自分自身でも、時に落ち着いて整理してよく考えて我が身を振り返り、適切に「君子豹変す」で態度や言動を改める勇気も必要なんでしょうね。

悪いヤツ、になるよりは、いい加減なヤツ、の方が数段マシってなもんです。

そう言えば、どこかの学校で売店のパンの万引きを減らそうといろいろ工夫した結果、生徒達が売店のパンを万引きする結果売店のおばちゃんの収入が減り生活が困窮しているという具体的な話をしたところ、万引きが激減したという話を聞いた事があります。

具体的に明確に「説明を試みる」というのも良い方法なのかも。対話は大事ですねえ。私にもいろいろな事を教えて欲しいものです。意地を張らずに謙虚に心を改めていきたいものですけど、名指しで面と向かってキツメの言葉で責められると意地張りそうだなあ。

とはいえ何もかもインターフェロンが悪いわけでもない

と、ハテナのブログにありがちな長い題を付けてみましたが、いかがでしょうか。

ペグリバのこの治療さえなければ、とか、肝炎にさえなっていなければ、とか。

いやいや、実はそんなに影響してないのかも知れませんよということは、自分で時々感じるんですよね。人格面に影響があるとは言っても、そもそも自分の持っていた人格のある一部分が顕著に表れやすくなると言う事のように思うし。

例えば、良い面もあるんですよ。
もちろん、病を経験する事自体に有意義な体験やそれに伴う思索が含まれる事があるということもあるんですが、私の場合、本来ひとつのことに集中してしまうと言う傾向がありましたが、インターフェロンの影響が強かった時期はこれがまた極端に先鋭化していました。

今思えば、躁状態と言えるのかも知れませんが、まさに寝食を忘れ、食費を削りながら資金を捻出して、何かを仕上げたりしていました。知識も貪欲に集め、本気で全然眠らなくて平気でした。それより焦燥感の方が強くて眠れる状況ではなかったと言う事なんですが。

そのころの知識や経験というのは、それなりに財産になっていたりします。確かにビョーキはビョーキなんですがね。

さて、今日のお昼はどこにご飯を食べに行こうかな。そう言えば、最近食欲も凄く出てきました。最近思うのは「結局は大差ない」ってことでしょうかね。慌てたり考え込んだりしてもしなくても、意外に大した差はないみたいな気がするんです。今は世間様と適度な距離が保てているのでそう思えるのかも知れません。

すき焼き弁当半熟卵付き

先日から無闇に歩くようにしたら体調が良いです。やっぱり歩くというのは、単に体力を付けるとか痩せるとかバス代を浮かすとかいう目的だけでなく、なんというのか、口から物を食べると言う事に通ずるような、人間としてのごく基本的な行動なのじゃなかろうか。始めから「日常的にそれをある程度することで安定化するように設計されている」と言う感じがします。

一時期、歩き方に凝って、いろいろと工夫をしていたことがあります。結局、二軸とかよく分かりませんでしたけど、腰をどんと落として歩くと安定感があります。膝や腰なんかに常にタメがあるので街中を歩く時なんかも機敏に対応できます。ただし、体力がないと辛い。

この体力がないと辛いというのが、歩き方が下手なのか、ごくごく基本的な筋力や心肺機能まで削り落としてしまっているのか。両方なんだろうな。

そんな感じで多少はしゃぎすぎと言う感じで歩いていますが、見た目からして早速痩せてきているようで、自分でもおしりの辺りとか少し締まってきたような気がします。腹は…、ま、そのうち。

実は食事はあんまり減らしてないんですよね。これはイカンところです。ところですけど、これもま、そのうちってことで。こう言う自分に都合の良いところは気楽な人間なんです。

というわけで、今日の晩飯はホカ弁です。すき焼き弁当半熟卵付きの魅力に負けてしまいました。なんでこういう不健康そうな物ほど美味しそうなんだろう。神様って罪作りです。

田淵俊夫氏のふすま絵

昨晩、先日の日曜美術館の録画を見てみたら、日本画家田淵俊夫氏が智積院のふすま絵60枚!を制作した話でした。

いやまた、私自身は絵の事なんか全然分からないわけですが、そのど素人の私が見ても「この作品ちょーすごくね?まじやばうぃっしゅ!!」とテレビ越しに本当に心の底から驚嘆しました。墨を用いた作品というのが書にしろ水墨画にしろ、濃淡とカスレで時間の要素を表すことができる。というのは誰かに伺って知識としては知っていたのですが、時間の要素、時刻、季節、加速、光、生命、変化、想い…

もう、このひとは完成されてしまったのではないか。と不吉な事を感じてしまうほどに、その一枚一枚の作品は完成されていました。これは神の領域なのではないかと思えるほどに。

作家の価値を後世決める要因の一つは、その作品数というのは確かにあるね。
というのは、ある画家から直接お伺いした話で、同じ内容の話は別である写真家からもお伺いした事があったのですが、なんとこの田淵氏、このノリとこのテンションの維持されまくった作品が一気に60枚ですぜ!もうイッっちゃってるとしか言いようがありません。壇ふみ氏も珍しく興奮というかあまりの作品を前に狼狽しているという風にすら感じられました。

こういう作品をテレビで全国に放送しちゃって良いのか。貞子のビデオみたいなことにはならないのかとか思いましたね。全国で墨をもちいた作品を制作している若い画家たちはあの作品群を見て「なにくそ!おれだって!」と思えないほどに打ちのめされた人もいるんじゃなかろーか。もっとも、アーティストさん達は「我以外皆下手也」と本気で思っている人が多いような気がするので、心配する事はないかな。

さて、それはそうと、最近クルマを使わなくなってかなり歩いてます。
といいつつ、夜ハンバーガーにがっついていたのでプラマイゼロかもしれませんが、体の細胞そのものは運動の経験を蓄積してくれていると思うので、体を動かす事に対する抵抗感は徐々に減ってくるはずです。

一時期あれだけ弱っていても、結構回復するもんなんだなあと。体を動かせる体に戻ってきた事が既に嬉しいです。

肝癪

宮武外骨という人がいたわけなんですが、この人は私の最も尊敬する人の一人です。詳細は割愛しますが。会った事もないし。

で、この人は、「癇癪」のことを「肝癪」と書くのだけどこの時代はこの表記が一般的だったのだろうか。

いわゆる「肝の虫」。「かんむし」ともいうみたいで、「ひやきおうがん」のCMでは「夜泣き、かんむし、下痢、発熱」と言ってたような気がします。

そもそも、この五臓六腑の「肝」というのが西洋医学の「肝臓」に正確に一致するのかどうかもよく分かりませんけど、どうも「肝の虫」がその宿主の人格にある程度影響を及ぼしているという思想はあったのかもしれませんな。

インターフェロンが、確かに人格面に作用するというのは実際感じますし、困った物だと思います。基本的にアップ系になる人が多いように感じられまして、体はだるいのにメンタル的にはやや易興奮気味という余計にボロボロになりやすいデフォ設定?その結果、巡る自己嫌悪と興奮の循環で社会的にはダウン系の経過を…

ま、それはそれとして。
インターフェロンとは関係なく、肝臓に病を抱えている人は比較的癇癪持ちなんだろうか。
正確な意味では分からないけど、「それ、あるかもしれない…」

自分に関して言えば、肝臓の経過が悪いということの意味する事をある程度分かっているし、多くのある程度経験を積んだ肝炎患者さんたちがそうであるように、私も自分で自分の肝臓の状態をある程度体調から予測する事が出来るので、「肝臓の状態があまり良くない時期は不安もあって多少イライラしやすい」ということはあるように思う。それで、治療して数値的に落ち着けばほっとして機嫌も良くなると言うのも分かるような気がする。

でも、そうでなくても、肝臓に病を持っている人は気が短い、というのはあるかもなあ。
一時期、A型性格の人が狭心症になりやすいという話があったけど、ある傾向の性格の人が特定の疾患のリスクを多く持っているというのはあるかもしれない。でも、例えばC型肝炎というのは感染症なわけでその病気の発症には直接に病前性格は影響してこないと考えるのが普通だと思う。

肝臓の病が性格に影響を及ぼすとすれば、まさに「肝の虫」が騒いでいるという状況に近いような気もする。もっとも、数値が高い時は内因性の物質とかいろいろ上がっているだろうしな。

それはさておき、気を付けちゃいるんだけど、どうやってもこういう風に文章が長くくどくなってしまう。「誤解を恐れる不安」が以前より強いような気がするな。

少しでも運動

もともと地下鉄もしくはバスで通勤してたのですけど、去年の夏前頃にインターフェロンの影響かもう「どーにもこーにもだるい」という状況になりまして、実際、ブラックアウトしてトイレから立ち上がれないとか、夏なのに全身が冷えて凍えそうになるとか、喋りながら失神とか、とにかく本能的に「おれ、まじヤバいんじゃね?(口調は亀梨くん風)」という感じで。それでも職場の人手不足もあってなんとか休まず通勤はしてたわけですが、昼過ぎくらいからはだいたい職場で寝てました。そのころに、クルマで通勤するクセがついちゃって、今に至るという状況です。

私の場合、職場の理解があったのでなんとか続けられたわけですが、ほかのみなさんもよく頑張って仕事をやっておられると思います。ていうか、私も今の職場が奇跡的に理解があるだけで、もちろん私自身も慣れてきているというのもあるわけですが、実際仕事が続けられなくてしばらくぷー生活をしていた時期もありましたけどあれはあんまりお勧めできませんね。うまく著効が得られれば終わりもありますけど私みたいに「基本えんどれす」という人もいるわけだし。

今、丁度住んでるところの駐車場が改修工事に入る事になりまして、しばらく閉鎖ということになりましたので、とりあえずクルマは職場の駐車場(社用地)に勝手に停めっぱなしにして自分はまた地下鉄orバスでの通勤を再開する事にしました。地下鉄にしろバスにしろ通勤中に20分〜30分くらいは徒歩のエリアがありますので否応なく運動できてしまいます。懐にも優しいし。

と、考えて今日張り切って外に出たら「さむ〜い〜」。今日は寒いので出社したくありませんと電話しようかと思いましたけど、「おめえ、ばかじゃね?」と言われそうな気がしたので頑張って出社してみました。体がなまってしまっているので当初拒否反応を示してしまいましたけど、「さむ〜い〜」と思いつつも歩き始めれば意外に大丈夫なものです。

グレン・グールドのゴルドベルグ変奏曲のDVD

私は特にクラシックに詳しいわけでもピアノに詳しいわけでもないのですけど、学生時代に筒井康隆の小説をきっかけに山下洋輔から連なるジャズ喫茶通いの日々だったために、どうしてもグレン・グールドというのは惹かれるものがあるのです。というのが、これまたホンマかいな。関連があるような無いような。

有名なデビュー作品の方はいまだ聴く機会に恵まれないのですけど、晩年のDVDだけでとりあえず相当に楽しいです。濃い。

演奏や音楽性に関しては諸先輩方のご意見あると思うのですが、さらにそのエピソードとか人格面とかに関しては更に、議論百出だと思いますが、うーん、私は好きだなあ。変わったバッハ弾きと言えばキース・ジャレットも変人だと聞きますが、端から見る限りに於いては、いやはやグールドの存在感に比べれば…